いくつかの短いお話 フラメンコ vol.4
フラメンコ vol.4
常にニュートラルでいる。
一見簡単なことのように思えるこの作業が、そうでもない。
偏りとは、そこにいる自分では認識できないものだ。
クラシック音楽しか知らなかった私は、フラメンコとのあまりの音楽観の違いに戸惑い、合わせることすら出来ない。今まで特権的な才能であると自負していたリズム感と音感だったが全く役に立たず、むしろ妨げになっているかのように思えた。というのも、いろんな音楽を広く浅く聴いてきた彼女には、私の苦悩など微塵も感じられないからだ。私と彼女の違いは何なのだろうか。
以前「絶対音感」について書かれている本を読んだことがある。そこには、音楽家にとって一見有益と思われている絶対音感には、逆に不自由な面もあると書いてあった。
絶対音感とは、聞こえてくる音が「ド」なのか「レ」なのか識別できる能力で、音楽を聴いていると即それに「ド・レ・ミ」を当てはめて歌え、また逆に、楽器が無くても正確に発声できる。つまり「ラ」 の音を声で出そうと思えば、自由自在にピアノの鍵盤の「ラ」と同じ音が出せるということだ。
これは先天的なものではなく誰でも持てる能力だとされている。しかし、それを身につけるのは3~4歳までと限定されるため、幼児期に音楽を始めることが出来た人だけの特権的な能力となる。音楽を志す人にとって、これが不可欠とまでは言わないが、あるに越したことはない。ところが、この絶対音感を持っているが故の不便さがあるというのだ。
例えば読書をしている時、普通の人なら全く気にならない、むしろ心地良いはずのBGMが、絶対音感を持っている人には耳障りになってしまう。というのも音の1つ1つが「ド・レ・ミ」という明確な名称をもって耳に入って来るためで、目の前の文字よりも先に、名前に置き換えられた音が頭を占領してしまうのだ。私はこれを読んで、自分が読書をする時に、なぜ無音状態を好むのかがやっと分かった。確かにBGMが流れていては書き物も読み物も集中できない。
しかしこの能力は、気がついた時には既に備わっているため、自分が特殊であると自覚することはなく、具体的な事例をあげ人と話して初めて知る。私も流れている曲を「ド・レ・ミ」で口ずさんでいる時、周りの人に「なぜ分かるの?」と不思議がられたことで、他の人が出来ないという事を知った。
ここでは「人の気持ちになって考える」という道徳的な言葉通りにはいかない。持ってない人には持ってる人の感覚は分からず、逆に持ってる人には、その音感のない世界がどんなものなのか想像すら出来ない。それゆえ人に指摘されるまで、自分が不便であるという事実を知らないのだ。
しかし一口で絶対音感と言っても、そのレベルにはかなりの差がある。自分の専門楽器 なら何の音か判断できるが、楽器が変わると識別力が低下する、その本では「ダイタイ音感」とよんでいたが、私なんかはその類でバイオリンの音なら外れることはないが、耳慣れない音色だと即答できなかったりする。
これがかなり高度なレベルとなれば、楽器だけではなく日常の雑音まで全て「ド・レ・ミ」に置き換わってしまう。よく例としてあげられるものに、鳥の鳴き声、救急車のサイレン、そして人の話し声、それらの音程が全て分かるという。ボーカルの声が伴奏から外れるなんて論外で、グラスの磨れる音とトースターの「チーン」という音の周波数が微妙にずれ不協和音となって耳に入るので、気持ちが悪くなったりする。日常の音が全て正確にハモってる訳はないのだから、こういう人は、四六時中いつもどこでも耳障りということだ。
つまり、彼らは、音楽・自然音・雑音というそれぞれ質の異なる物を、まず「音程」という1つのフィルターに漏れなくかけてしまうのだ。
私にとってのフィルターとは何か。それは、クラシック音楽のリズムと音階である。すべての音楽を、この1つの基準を通してからでしか聴くことが出来ないようになっているのだ。私はフラメンコを異質だ異質だと連呼しているが、フラメンコからすれば、クラシック音楽こそが異質と感じるはずである。
私と彼女の違いは、このフィルターの有無ではないだろうかと思い始めた。音楽を専門的にやってこなかった人には、リズムが違うとか音階が違うとかそんなことは関係なく、音楽を楽しむことができる。彼女にはフラメンコが異質とは映らず、そういう特徴を持った1つのジャンルとしてしかない。ジャズ・タンゴ・シャンソンを、それぞれを区別しているのと同じだ。
私は1つのことだけを追求してきたことの弊害を強く感じた。「音楽奏者」と「音楽家」の違いは、ここにあるのではないだろうかと。
何か新しい事を始める時に、ニュートラルな状態にいる人は呑み込みが早い。辛い物を大量に食べた後では、京料理のような薄味は、まるで味がついて無いかのように感じるものだ。私もフラメンコを頭で理解しようとするより、自分の偏りを取り外すことの方が先決だと思った。私がこの数十年かけてクラシックへ傾いてしまったものを、ニュートラルな状態へコントロールできれば、今とは違った音楽観で、新しいものを創り出していけるはずだ。まずフィルターをかけない地点に立たなくてはならない。
とは言うものの、自分で持っている感覚が無かった物を取り外すというのは至難の技。「どうすればいいのか」と真剣にあれやこれや思い悩む私の横にいるラテン系の相棒は、 そんな私の様子なんて、やはり全く目に入ってないようで、舞台に向かって元気よく「オー レ!」と言っている。「あー、今日のショーも良かった。又見にきましょうね!」
つづく