ばいおりんたちの学校

大阪市中央区谷町のバイオリン教室

いくつかの短いお話 フラメンコ vol.3

 フラメンコ vol.3

 

Photo_5 新しい音楽を創ろうとした我々二人は、生のフラメンコを観に、たびたび足を運ぶようになった。ところ変われば、とよく言うが正にその通りで、名前はよく知ってたが、遠いお国の音楽は、私が想像していたものとは全く違っていた。

 音楽の中で大きな地位を占めていると思っていたクラシックだが、世界中の音楽人口からみれば20%にも満たないらしい。つまり、クラシックとその他諸々の民族音楽ではなく、クラシックも西洋地方の民族音楽の1つだ、という訳だ。日本人が、というより、自分自身がいかに西洋文化に傾いているかがよく分かる。世界中どこへ行っても音階は「ド・レ・ミ」だと思っていた。

 以前インド音楽のワークショップに参加したことがあったのだが、それは音楽というより数学の世界だった。音楽と数学、この2つは一見両極に位置するように思われるものの、実はそうでもない。実際インド人は数学に長けていて、優れた数学者が多く生まれているという。

 インド音楽は大きく北と南の2つに分けられ、それぞれかなり趣が異なり、私が勉強したのは北の音楽だった。楽譜は無く、演奏は全て即興だ。

 ラーガとよばれる旋律の形式だけが決まっているのだが、ラーガは、朝・夕・夜のそれぞれの時刻によって、また季節によっても異なる。つまり、午前中に「夜のラーガ」を演奏してはいけないのだ。それぞれのラーガはまるで計算式のように規則正しく音が並んでいて、西洋音楽に慣れ親しんでいる私には、音楽というより演奏前に指慣らしをするためのエチュードのように聞こえた。そして曲を聴いていると、何か耳障りな音がいくつもしてくる。「音程が狂っているのか?」

 インド音楽の音階には「ド」から「ド」の1オクターブが22に区切られている。つまりピアノのPhoto_13 鍵盤には存在していない音が、あと10個もあるということだ。私に耳障りに聴こえてきたのは、この10個の音だった。「ド」と「レ」を聞き分けられない人もいるというのに、インド音楽奏者はこの22の音を正確に区別することができるのだ。

 そして更に驚いたのは「ターラ」とよばれるリズムだった。我々が一般に使うのは、せいぜい三拍子、四拍子、程度だが、インド音楽には108拍子まであるという。演奏しながら一体どうやって108も数えるのかと頭を抱えてしまう。

 このとんでもなくややこしいターラ、細かく区切られた音階、時刻・季節によって変化するラーガ、更にそれを即興で演奏する。これは正に神業だ。

 確かに「神業」というのもある意味、的を射ていた。というのも、インド人は音楽を、趣味や娯楽ではなく「神に捧げる供物」と考え、音楽の道とは修行の1つと位置づけているのだ。そんな彼らにとって音程やリズムが狂うということは、我々が持つ意味とは非常に大きな違いがある。

 例えば、「ド」の音を奏でることには、「ド」の神様の座る位置を御用意するという意味がある。「レ」も「ミ」も同様なのだが、これらの正確な位置がなかなか定まらず、何時間も何日も費やすこともあるという。そして全ての位置が定まって、ようやく演奏を始めることが出来るのだ。

Photo_15 ある時、修行中の弟子が質問した。どれくらいの期間でインド音楽を習得できるのだろう  かと尋ねたところ、師匠の答えは「二生」。生まれ変わって、更に次の生涯も音楽に捧げてようやくという話だ。奥が深いというか、なんとも気の長い話だ。

 このインド音楽のワークショップは数日間かけて開かれたのだが、参加していた私には、「ほんの入り口程度も学べないだろう」と思えた。そして、それにのめり込むこともなく、「途方も無い世界」という記憶だけが残ったのだが、この事は、今まで私が全てだと思  っていた音楽の世界が、ほんの一部の地域のほんの一部の人達の特徴的なものであって、他に知らない音楽が存在しているということを知る機会になった。

 

 

 

つづく