ばいおりんたちの学校

大阪市中央区谷町のバイオリン教室

いくつかの短いお話 フラメンコ vol.1

 フラメンコ vol.1

 

 

(1999年筆)

Photo_1 ストリート・ミュージシャン、私には全く縁遠い職業だと思っていた。 「道端で演奏なんて恥ずかしいじゃないか。」 ところが今、これが私の週末の仕事になっている。 自分が将来何者になるかなんて、本当に分からないものだ。

私はバイオリンを3歳の頃から始め、泣くまで続く、いや泣いても続く厳しいレッスンを日々受けてきた。 何故にああも「先生」とは恐いものなのか。 これには本当に例外がなく、私の音楽仲間も口をそろえてそう言う。

今でこそ ジャズやポップスにも道が開かれたバイオリンだが、昔はクラシックが主流。 少なくとも子供の頃の私には、それだけだった。 厳しい先生と厳しい親の元、イヤイヤ続けてきたバイオリン、母との約束は「義務教育の間はやめずに続けること」だった。 私にはそれが待ち遠しく、先生と親の期待には見向きもせず 中学を卒業と同時にあっさりとやめた。 「音楽を聴いていると楽しい」そんなごく当たり前の感情、気がついた時には既に毎日が音楽漬けだった私は、半ば強制的に続けていたバイオリンから離れて初めて、その「楽しむ」という気持ちがわかった。

私にとって音楽とは、記号や音の呼び名の羅列に過ぎず「出来る・出来ない」「分かる・分らない」で判断するものであって、「楽しい・楽しくない」の基準なんてない。 これは幼少期に徹底した音楽教育を受けてきた人に 結構多いのではないだろうか。 確かに知識、技術面は長けているのだろうけど、一番磨かなくてはならないはずの感性が、私の場合あまり育たなかったように思える、親や先生の思惑とは裏腹に。 何と皮肉な話だろう。 

それから10数年経った今、私は友人の勧めもあって 自宅でバイオリン教室をしている。 バイオリンを嫌がる私に 母はいつも「大人になったらきっと親に感謝するようになる。」と言っていたが、今、私の生計はこの教室によって成り立ち、母が言ってた事が本当になってしまった。

Photo_7生徒は初心者のOLがほとんどで、楽譜を読むのもままならない彼女達との奮闘の日々だ。 小さい頃、厳しくて嫌いだった先生。 あんな大人には絶対なりたくないと思っていたのに、いざ自分が指導する側になってみると、あの時の先生と同じ姿がそこにあった。

ある時、「先生、私の事嫌いなんですか?」と 生徒からまともに質問されたことがあり、これには驚いた。 そんなつもりは微塵も無いのに 彼女達にはそう見えるようだ。 例え嫌われると分かっていても、レッスンが始まると ついつい必死になってしまう。 あの時の先生も そうだったのかもしれないと 今なら思える。

 

 クラシックの道から離れて随分たつ私は、バイオリニストとして今から生きていけるとも思えず、ただ忙しく指導の日々を送っていた。 そんな時 あるフラメンコギター奏者と知り合った。 とっても奇麗な彼女、それが私の相棒だ。 彼女も、まさか自分がストリート・ミュージシャンになるとは 思ってなかったろう。

当時 の私は フラメンコを見たことも聞いたこともなかった。 しかし彼女と話していると、何かピンとくるものがあって、すぐさま「一緒に組まないか。」と申し出た。

Photo_6彼女はギターを初めて まだ1年足らずだったというのに、私から見ればかなりの腕前で、とても初心者とは思えない。 初めて耳にしたフラメンコの音楽、クラシックに慣れ親しんできた私にとって、これはかなり異質なものだった。 バイオリンで合わせようとするが、リズムもメロディーも全くかみ合わない。 今まで どんなジャンルの音楽でも即興で合わせることが出来たというのに、ことフラメンコとなるとカンが狂う。 その曲が何拍子なのか、次に何のコードへと移っていくのか、予想がことごとく外れ、困惑している内に一曲が終わってしまうのだ。 これまで特権的才能だと思っていた私の音楽知識は全く役に立たず、お手上げ状態だった。

何故こうも合わないのだろうかと、彼女の師匠に相談してみたところ「考え方も構成も全く違うからね。」とあっさり言われた。

フラメンコには、クラシック音楽に存在しない音階があるらしい。 それは長調でも短調でもなく「ミ」の音が基準となる「ミの施法」という音階。 リズムも、クラシックとは違う拍子の取り方をする。 フラメンコ音楽が哀愁を通り越えた「苦しみ」のようなものを表現出来るのは、この2点に因るところが多いらしい。

Photo_10世界には多くの民族音楽があり、それぞれの文化を反映して生まれてきた。 私の手探りの「フラメンコ」への旅路は こうして始まった。 

つづく

 

 

 

 

 

(DE6号掲載 1999年12月13日発行)