ばいおりんたちの学校

大阪市中央区谷町のバイオリン教室

いくつかの短いお話 響の祭2

 響の祭2

 

(1999年筆)

ダニエル・コビアルカ   in 大和高田さざんかホール

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 いよいよ本番を迎えた響の祭。 現代の福祉に疑問を投げかける このイベントは、3年間継続して開催する予定だ。 そして奈良県大和高田市が、記念すべき幕開けの地となった。
 疑問とは何か。 それは福祉を行う側と受ける側とは、その立場を交替することなく、受ける側はいつも受ける一方ではないだろうか、ということである。 この祭は、そういった現行の福祉システムに対し問題提起をしている。 「受け手側からの恩返し」というコンセプトのもと、福祉の一大ムーブメントをおこす壮大な夢を持って、この響の祭はスタートする。

準備期間が極めて少なかったために、様々な問題を同時に抱えることになった。 しかしながら、当初からこのイベントは、何か見えざるものからの祝福を受けているかのごとく、その難関を突破し続けてきた。

 

ダニエル・コビアルカ
 メインゲストであるダニエル・コビアルカ氏は、響の祭のコンセプトに賛同して、「有志ボランティアのオーケストラを当日結成する」という、とんでもなく危険な試みを、快く引き受けてくれた。

彼は、本国アメリカの「サンフランシスコ交響楽団」の首席を20年も務めるクラシック界のスターである。 そして同時に、独自のヒーリング音楽をPhoto_13 追求し、この道は彼によって確立したと言っても過言ではないだろう。 又、彼はバイオリン片手に、地域の老人ホームや福祉施設に出向いて演奏活動するなど、福祉には明るい人だ。
 ダニエルの音楽は、心理療法の分野においても功績が多い。 10年以上も精神的な病で外界を閉ざしていた少年が、彼の音楽を聴いたことで言葉を取り戻したなどの事例が数多くある。 バイオリンの音色が、人の無意識層へ入り込み、病の根源に届いて癒してしまうという。 クラシック奏者でもある彼は言う。「オーケストラの中にいる時、以前はもっと大袈裟な弾き方をしていたが、あんなのはパフォーマンスだった。 今の自分は違う、とても自然だ。」 そんな彼が演奏している姿は、自分自身の音楽に癒されているかのように、ただそこで音色を奏でている。 リラックスした姿である。

今回のコンサートで、障害を持つ男の子がステージで音楽に合わせて気持ちよさそうに踊り出す一幕があった。 コーラスで参加したはずの少年だったのだが、指揮の真似をするうちに舞台で踊りだしたのだ。 その情景を誰もとめる事なく、観客、演奏者、そして介護者が温かく見守っていた。

  

響オーケストラ&コーラス
 コーラス隊は、有志の協力により、その数は徐々に増えてきたものの、当日を迎えてもまだ予定人員には至らなかった。 ところが「その日の朝刊を見て来た」という飛入り参加者がいたり、ボランティアスタッフの中にプロの歌手がいたりと、どたん場になって人数がそろった。 クラシックの場合、オーケストラとコーラス隊のバランスは大変重要なファクターである。 目標人数に何とかこぎつけたのは、全くの奇跡だ。

実は、この日に向けて希Photo_14望者だけの事前練習が、わずか1回あったのだが、集まったのは、たった20名程。 これでは当日の雰囲気はつかみきれない。 しかし今回は、音楽関係者にも恵まれた。 指揮を引き受けてくれた、御自身も障害を持つ仲川氏は、福祉のオーケストラ「まごころ」を結成し、広く音楽活動をしている。 彼も、コビアルカ氏同様の雰囲気を持ち合わせた人で、温かい空気がただよっている。 そして今回の編曲者であり音楽監督でもある長谷川先生。 ピアノ教室を営む傍ら、仲川氏の右腕となって「まごころ」を支えている人だ。 彼女の指導ぶりと、その何事にも動じない姿には、一目置くものがあった。 当日になってもまだ、どの楽器が何人いるのか、コーラスが何人集まるのかを把握できない状態で、「臨機応変に行きましょう。 その場で判断して、各パートに指示を出しますから。」とあっさりと言ってのける。 おそらくどこの編曲者に頼んでも、そんな非常識なことはお断りだろうし、何とか出来るのは彼女しかいなかっただろう。

 

ダニエルの姿勢
 ダニエルは、この一週間、日本各地でコンサートに出演すべく、大きな荷物とともに、通訳を含む4名で旅をしていた。 この日も、前夜に東京でコンサートを終え翌日は奈良、というハードスケジュールだった。

当日、電車で到着した一行を、駅で迎える。 バイオリンを大切そうに抱えながら挨拶を交わすダニエルの笑顔が印象的Photo_15 だった。

コンサートは二部構成だった。 第一部が、ダニエルによるバイオリンのソロ演奏。 そして第二部が、響オーケストラ&コーラスと、ダニエルの共演となる。 リハーサルは順調に進んだように見えたが、ダニエルは何やら納得いかない様子。 オーケストラが舞台からおりた後も、彼はステージに残り、一人リハーサルを続ける。 その姿は、さきほどとは別人のようだ。 ステージ中が緊張感に包まれた。

開演まで時間が差し迫る中「もう少し待ってほしい。」と ダニエル側からの要望。 広いステージで、独り椅子に腰を掛け、目を閉じ瞑想をしている。 この光景を目にして、彼がステージの一つ一つを、いかに大事に思っているかが、うかがい知れた。 ダニエルは、確固たる自分の世界を持っている。 そしてそれを多くの人々に心を込めて伝えようとしていた。

 

押したステージ
 今回の祭の協力者でもある映画監督、大重氏の挨拶で舞台の幕が開ける。 そして第一部、ダニエルのバイオリン演奏が始まった。 この日の彼は、とても気分がのっている様子だった。 曲の合間に自らマイクを持ち話を始めるという、予想外の一幕があった。 主催者側である我々にとって、これほど嬉しいことはない。

しかしそPhoto_16 うも喜んでばかりはいられない。 終了時間は厳守しなければならないからだ。 あらかじめ編集された録音された伴奏をバックに、ダニエルはバイオリンを演奏する。 生のオーケストラなら多少融通もきくが、そうもいかない。開演自体が5分遅れたせいもあり、その後のステージは時間がどんどん押していき、第一部終了の時点で、すでに30分の遅れがでた。 休憩を極端に短くしたとしても、この遅れを取り戻すのは不可能ではないのか。と不安に包まれる舞台裏。

ここで、堂々たる音楽総監督、長谷川先生の登場だ。 オロオロしているスタッフをよそに、この事態にも彼女は全く動じて無い様子だ。 そして指揮者の仲川氏もそれに同じ。 この二人の落ち着いた対応には脱帽だった。

結局、第二部では予定していた三曲のうち、一曲カットすることになった。 終演時刻は、予定の10分オーバーという 何とか許せるの延長にとどまり、響の祭の幕は閉じた。 終了後、会場口ではダニエルのサインを求める長蛇の列ができ、閉館する直前まで続いた。 疲れているはずのダニエルは、一人一人に丁寧に応対している。 本当に、彼は心を尽くす人だった。

 

予想外に伸びた来場者
 当日の来場者数が一体どれくらい見込めるのか、これはさっぱり見当がつかなかった。

会場は1000人収容の大ホール。 ここの担当者の話によれば、ポップス系はまだしも、クラシック系の集客はかなり厳しいとのこと。 有名な交響楽団でさえ、何ヵ月も前から宣伝に宣伝を重ねても、席の半分がうまらないことはあると言う。Photo_17  彼の経験でも、前の2、3列は人がパラパラといるが、その後ろは全くの無人状態、開演のベルは鳴ったものの、幕を上げるのが気の毒になる事が、実際あったらしい。 これは何としても避けたい。 開場するまで祈るような気持ちだった。ところが蓋を空けてみると、案ずるより産むが易し。 多くの人でロビーは賑わい、受付には人の列が出来ているではないか。 この時のスタッフ陣の喜びは、言葉では表し尽せない。

  

寄付が出来る!?
 本番2ヶ月前からスタートした本企画。 公的な助成金補助金を申請するだけの時間がなく、また企業からの協賛金も、同じ理由で無いに等しい厳しい経済事情。 頼るところは、純粋にチケット収入だけだった。

当日券2800円、前売券2500円。 果たして、どこまでお金が集まるのだろうか。 トルコと台湾地震のチャリティーと名うっているものの、赤字に終わり それどころではなくなるかもしれないというのが、我々の正直なところであった。 しかし来場者は、ほぼ500名となり、チケット収入が予想外に伸びた。 又コンサート終了後、ロビーに設置していた募金箱への人の列にも、目をみはるものがあった。 「本当にいい音楽だった。心が癒された。」との声とともに、募金箱が、どんどん重たくなっていった。

 

 

舞台ウラ話
 時間が無いながらも、ありとあらゆる新聞社・雑誌社・放送局に宣伝をしたことが功を奏し、本番終了後、取材に訪れる記者達の姿が見られた。 後片付けを急がなければならない中、忙しく取材に応じるという、事務局長には予想外の何とも絵になる光景だった。 翌日の新聞では、このコンサートの模様が、大きく報じられたのだが、これは第二回に向けての貴重な財産になる。 というのも、今回何よりも苦労したのは、我々が全く実績のない団Photo_18体であること、更にそのイベントが第一回目である点だった。 このことが、実は行く手を阻む一番の障害物だったのだから。

今回初めて、コンサートの運営を手掛けたDEスタッフ陣を中心とした有志。 出演者への心配りが、多々欠けていたのも事実だ。 開演にこぎつけるのに手一杯で終わってしまい、第二回へ向けての課題点が残る。 実際、観客の目に触れない舞台裏では、かなりの混乱が生じていた。 「担当者が見当たらず、いつも探していた。」 「指示が統一されてなくて、どうすればいいのか迷った。」など。 確かに出演者が100名を越え、来場者数500人規模のコンサートに、スタッフ20名弱というのは、どう考えても少ない。 一人が、二役も三役も こなさなければならない。

さて本番という時、「タイムキーパーはどなたですか?」と質問されるが、誰も答えられない。 こんな大切な事をすっかり忘れていたのだ。 これで何とか無事に終了できたというのは、知らぬが仏、スタッフが素人ゆえの強みだろう。

   

次世代コンサートへの提案
 その昔、王や貴族により催されていた中世における演奏会、華やかな舞踏会に見られるように、この時代においては、あくまでも身分が高いのは観客側、演奏者側は常に敬い捧げるという両者の関係があった。 しかしこの相互の関係性は、その後時代と共に変化していく。

パンクやロックに代表される、観客と出演者のバトル時代。 そして80年、90年代には、それが「癒し」へと移り変わり「レイブ」にみられるような調和の時代を迎える。

観客は見る立場だけに止まらず、ステージと一体になってコンサート全体に組み込まれ、演奏者側は、そこでのコミュニケーションから即興を生み出す。 それは観客と出演者の関係性が、相互に、インタラクティブに成り立っているといえるだろう。 この時代のコンサートとは「社会にどう影響を与えるか」が、一つのテーマになっている。

そして、来たるべき21世紀のコンサートのかたち、これが響の祭からの提案である。 それは、音楽自体が社会的な構造をもつというものだ。 つまりコンサートという非日常が、社会という日常に「構造」として融合され組み込まれる時代。

YURAを支える「YURAネットワーク」、現段階においてはチケット販売等にすぎないが、このネットワークによって起こる日常の人と人とのコミュニケーションによるハーモニーが、それぞれ響きあい、社会システム自体がメロディーを奏でるのである。

芸術と社会との融合、その結実としてのコンサート。 これこそが、響の祭の提案する21世紀のその姿である。 そして、この奈良大和高田が、その記念すべく発祥の地となった。

 

 

 

 

(DE5号掲載 1999年11月15日発行)